コンクリートの隙間から育っている
植物を見ると、
つい足を止めて見てしまいます。
いつものお寺さんでの出来ごと。
(私は無宗教です)
副住職が小石を使って法華三部経の「五百弟子受記品第八」と「授学無学人記品第九」をお話しくださりました
その小石を見て、随分前に自分の魂の進化を霊視した時に、岩と砂利とコマを視たことを思い出しました。
大きい岩は、風や雨、人の話す声を全体で感じるが只々そこで構え動くことは出来ない。動けないながら、人々の会話に温かい感覚と、静寂な雪の季節や嵐の時はそれが過ぎ去るのをただ感じていました。
砂利は人に踏まれることによって時より少しだけころっと動くことができる。そんな時は心が踊りました。
この地上には大中小の草木がしげっていますね。それらは性質も形も様々です。しかし全ての草木は共通して雨水を欲します。
そしてコマは、ヒトに回されて、コトっと止まる回るを繰り返す。そこで私ってなんだろうと、そんな感覚が芽生えました。
ハイヤーがそんな風に私らしい表現で視せてくれたのでした。
今日は法華三部経の中の「薬草諭品第五」
をご紹介します。
自分なりの解釈になってしまっていますので悪しからず。
雨は地上にくまなく降り注ぎ、
あらゆる草木に平等にそして豊かに潤してくれます。
草木はそれを受け成長しますが、
同じ雨の恵みを得ても、草木の成長の度合い、咲く花、結ぶ実は違います。
植物は自分がどんな花を咲かすのか、どんな実を結ぶのかなんて事は知りません。自分のもって生まれた性質をすくすく伸ばしていくのみです。
ましてや、花が木になりたいなどとあがらうことなどないのです。
如来の教えもこの地上に降り注ぐ雨のようなもの。
人々は育った環境や生い立ちそれぞれ違うために、如来の教えの受け取りかたに違いが生じます。
しかし自分がいったいどれほどか。自分の価値はどれほどの物かなんて事は仏のみが知ること。
仏は全ての人々がその根源において全く平等な存在であることを知っているのです。
人々の性質、生い立ちそれぞれに相応しい教えを説き違うようにみえても、仏の教えはただひとつであり平等にそそぐもの。それは草木が雨水を得ると同じ様に。
異なっていても、その本質は平等でひとつであると認識してこそ、自分も他人も生かして生かされるのです。